【鶏肉とブロッコリーの辛トマト炒め】
20年くらい前、原宿駅前にカウンター10席くらいの小さな中華屋がありました。
当時いた編集部の先輩に連れていってもらったのが最初だと思うのだけど、夫もこのお店のことはよく覚えてるから、もしかすると夫とも行ってたのでしょうか。
狭いカウンターのなか、中国人兄妹で中華鍋と蒸籠ひとつずつを使ってテキパキどんどん料理を作るのですが、そんな仕事をカウンターごしに眺めるのも楽しみでした。
ただ、二人、本当に愛想がない。
「水餃子お願いします」
と注文しても、ちらりとこちらを見るだけ。
ちゃんと聞こえなかったのかなと思いきや、おもむろに餃子の皮を伸ばして包んでゆでたりし始めるといった調子なのですが、とにかく出てくるものはすべて美味しかった!
いまでもときどき思い出すほどです。
特に好きだったのがトマト麻婆。
味が美味しかったのももちろんのこと、このメニューが店主の気が向かないと作ってもらえないスーパーレアメニューだったため「次こそは食べたい!」という執着の気持ちが残ってしまっている、片思いの一品なのです。
初めて先輩に連れていってもらった日。
「トマト麻婆ってあってさ、すごい美味しいんだけど、
出てくるか出てこないか、頼んでみないとわかんないんだよね」
へえ、それはすごい!
すぐ売り切れちゃう人気メニューなのか。
なんて想像している横で先輩がさっそく注文しました。
「次は、トマト麻婆お願いします」
しーん。返事はまったくなし。
「はい」でも「今日は売り切れです」でもない。
水餃子のときと違って、こちらをちらりとも見ません。聞こえてないのかな?
「もういちど言ったほうがいいんじゃ……?」とお店の人に聞こえないように囁くわたしに、先輩は「いいのいいの」と囁き返してくるではありませんか。
よくわかんないけど、仕方ない、ここはこういう店なんだろう。きっと今日はないよ、ということなんだろうと納得することにしました。
すごく美味しいのか。
食べてみたかったな。
未練がましく思いながらも、でもないのならば仕方ない。
そのうちトマト麻婆のことはほとんど忘れて、その日の仕事の話などいろいろしゃべっていたところ。
ドン!
とつぜん、赤いペースト状の料理が、目の前に置かれました。
「お、やった! 今日はついてる」
と先輩は嬉しそうに、そそくさと私の分までよそって「はい」と渡してくれるではありませんか。出てくるか出てこないか、頼んでみないとわからないってこういう意味だったのか……。わたしの想像を遥かに超えた、この店独自のルールに戸惑いながらも、ひと口食べたとたん、そんなことはすべて吹っ飛びました。
なんじゃこりゃ!
美味しすぎる!!
一見ふつうの麻婆豆腐。
柔らかい絹ごし豆腐が細かくつぶされ、全体が豆腐のような肉のようなペースト状になっています。
でも小さいトマトの皮がちりじりに混じっているから、トマトを刻んで煮詰めているのだということはわかる。トマトの酸味はまったくなく、トマトと聞かなければ何かわからない人もいるかもしれない、ただのうまみとなって麻婆の味と渾然一体となっています。
ピリッときいた豆板醤が煮詰めたトマトの優しい甘みをまた引き立てていて。びっくりするほど辛いなかに、トマトのほんのりとした甘味と香りが、麻婆の味を立体的に複雑にしつつ、ふくよかに包み込んでいます。明らかに普通の麻婆豆腐とは違う、どこでも食べたことのない初めての味。一口食べたとたんにとりこになりました。
帰宅した後にも「あのトマト麻婆が食べたい!」と何度も思い出し、再現して作ったりもしてみましたが、やっぱりあのお店のが食べたい。食べたい。食べたい。
何日間も思い続け、翌週にさっそく食べ物好きの友人を誘って来訪し「トマト麻婆お願いします」と頼んでみたところ。
当然のようにその注文は無視され、残念ながら、最後まで出てきませんでした。
わたしがほとんど一見の客だからいけなかったんだろうか……。
そもそも、よく知らない客がトマト麻婆を頼むなんておこがましいことだったんだろうか。
食べたさのあまり卑屈な発想も出てきます。
と同時に、そこまでのトマト麻婆、どれだけスペシャルなのか。ますます憧れの気持ちも高まります。
もちろん、トマト麻婆を食べるためならば、ここから先、顔を覚えてもらえるくらいには通う覚悟だけれど、でもいつになるかわからないその日まで待てない!
最初に連れて行ってくれた先輩に頼みこみ、一緒に行ってもらい
「トマト麻婆ください」
と再び注文しましたが、その日も結局、最後までトマト麻婆が出されることはありませんでした。
はあ。
「トマト麻婆ってさ、出てくるか出てこないか、頼んでみないとわかんないんだよね」
最初のときとほぼ同じセリフを先輩は繰り返しながら「もう今日はトマト麻婆は出ないよ。諦めて最後の一杯にしよう」と決めて頼んだビールの最後の一口を飲み干したのでした。
その後も諦めきれずに10回以上は行ったかと思いますが、「トマト麻婆お願いします」の注文には変わらず無言のまま。ときには出され、ときにはやはり出されないまま諦めてお勘定をし。トマト麻婆を食べられたのは結局、たぶん3〜4回だったでしょうか。
やがて編集部の仕事も離れ、下の子も生まれ、ますます外食に行く機会も減っていき、ついにそのままお店とはお別れしてしまったものだから、トマト麻婆の思い出は美しくなるばかりなのです。
思慕のあまり、拙著『汁かけごはん』では、わたしなりのトマト麻婆を再現しています。
これもとても美味しいので、ぜひ作ってみてくださいね。


それにしても、あのたまにしか出てこない「トマト麻婆」とは何だったのか。
出してくれない日にはトマトの仕入れがなかったのか、ほかのオーダーが忙しくて作りたくなかったのか、わたしみたいに「食べたい!」とやみつき客を増やすためのまさかの策略だったのか。
あるいは、日本語がそんなに得意でなかったからきちんと返事をしなかっただけなのかもしれません。
今となっては、いろいろにも理由は想像できますが、当時はあまりの美味しさと、クセになる無愛想さに惹かれ、ただただ足が向かってしまったあのお店。
いまもあるのかなあ、とときどき気になっています。
もしもあるのなら、コロナ禍を無事に生き延びてほしいなあ、と思いますが、結局いまどうなっているのか調べもしていないのだから、無責任な思い出話ですね。
そんな思い出から、トマトと豆板醤を合わせた味は今もたまに無性に食べたくなります。
今日作った、鶏肉とブロッコリーの辛トマト炒めも、
ちょっとトマト麻婆に似た味。美味しいので、ぜひ作ってみてくださいね。
器の底に残ったトマトと香味野菜のところをごはんにのっけて食べると、これまた震えるほど美味しいのです。
最初から丼にしても、きっと美味しいことと思います。
【鶏肉とブロッコリーの辛トマト炒め】

1 鶏もも350gに塩こしょう酒適量をもみ込み薄力粉大1〜2をまぶす。

2 油大2で両面を焼き、生ブロッコリー適量も焦げ目がつくまで焼く。


3 ねぎ生姜にんにくのみじん切り適量と豆板醤小1を加える。

4 香りが立ったら、トマト粗みじん2個分と醤油大1/2を加えて炒め合わせ、水分が半量になるまでじっくり煮詰める。
